寛平アースマラソン-サポート記の最近のブログ記事

頑張れ、寛平さん!

2010年1月15日
 たくさんの報道でアースマラソン挑戦中の寛平さんに前立腺癌が見つかったことはみなさんご承知のことと思います。
 寛平さんとは90年の出会い以来、私の人生に大きな変節を与えてくれた恩人です。この間、寛平さんがチャレンジしたあらゆるマラソンに同行させて頂き、彼の人柄とランニングへの真摯な姿勢や技術をを問わず語りに教えて頂いたわけです。勿論、今回のアースマラソンについてもはじめからお手伝いしてきました。殊にアースマラソンのようなロングランに対しては現場でできる細心のチェックはしてきていたが、病は期せずして襲来する訳で、ある意味懺悔に堪えない悔さが残ります。

 この20年間、寛平さんはウルトラの世界で心も技術も高みに昇っていました。一方の私は57歳時点で腰に決定的障害を抱えることになり、少なくとも共に走ることが難しくなってきてしまい、「走る」ということでは少なからず寂寥感を抱きながらアースに関わってきていました。

 寛平さんはこれからが本当の闘いです。その闘いは我々の想像を超えたものになるだろうし、軽々しく語れないことになるでしょうが、寛平さんがアースマラソンに賭けた思いの万分のひとつでも手伝いたい、今はそんな気持ちだけが激しく心に去来しています。
 頑張れ、寛平さん!

 ルフトハンザ航空の飛行機でチェコの首都プラハに入ったのは26日。
翌朝、およそひと月ぶりで寛平さんに会うため、プラハからおよそ50km離れた今日のランニングポイントに向かった。
‘93年それまでのチェコスロバキアがチェコとスロバキアに分離して現在のチェコになった国だから建国して16年が経過したところ。建国後、民主化が始まり今は政治・文化・経済が徐々に自由主義の国に近づきつつあるので、首都プラハ市内にはマクドナルドやSONYなどの看板も目立つ。とはいえ国民の生活程度はまだまだ低く、月収で10万円程度だという。
 整備された高速道路を30分ほど走り、一般道に出たところで寛平さんを待った。
秋から春先までの5ヶ月間、チェコは雲が低く垂れこめ、鉛色の空になるらしい。今日もそんな鉛色の空、これが定番。
気温は12~3度くらいらしいがじっとしているとやはりじんわり寒い。走るには快適な気温だと思うが・・・。
 プラハ郊外に出るとあたりはすっかり農村風景。耕された畑が延々と続き、紅葉に色づいた小さな森が点在する。黄色や紅色に枯れた木々が常緑樹に混じって美しい。時折トラクターを運転する農家の民にすれ違うほか人の姿は見えない。・・・人口500数十万人の国だから人は少なくてあたりまえか・・・?
 11時30分頃、見慣れた右肩下がりのフォーム、頭にはまっ黒のカンペリーノハット、そしてこの日は真っ赤なウィンドウブレーカーといういでたち。
 コペンハーゲン以来の再会。顔の色つやもよく元気そうだ。
 「どうですか?(笑)」
 「ああ、調子ええよ~」といった具合。
ぶーやんが自転車を組み立ててくれたので今日は伴走。コペンを出てからサポーターも二人になり、寛平さんは一人で走ることが基本になっている。だから日本から応援にきた人が折々自転車で伴走するくらい。
 日本のことや走ってきた都市や国のこと、食い物のことなど四方山の話をする。こういった時間が気分転換にもなっていい感じなんだろうと思う。なにせ、通訳・ぶーやん・寛平さんのたった三人の旅だから

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 2016年開催のオリンピック候補都市に残っていた東京が最終プレゼンの結果、落選した。マドリッド、リオデジャネイロ、シカゴ、東京の4都市で開催地に選ばれたのは南米ブラジルの首都リオデジャネイロだった。

 東京招致の大使としてコペンハーゲンをひとつの目標として26000キロをひた走り、海を命懸けで渡って招致委員会を応援してきた我らが寛平さんの願いも虚しく、北欧の海の藻屑と化してしまったのである。

 寛平さんも大使として頑張ってきた。というよりアースマラソンでのひとつの大きな目標になってきた感があった。最終投票の様子をリアルに体験することなど初めてだろうし、結果をまのあたりにして何を感じたのだろうか? 

 明日から再び日本に向けたアースの旅が始まる。孤独な大地との語らいを、見知らぬ異国の人々とのふれあいを、どう感じながら走ってゆくのたまろう?「コツコツゆきますワ・・」と笑顔で応えてくれる気がする。

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 寛平アースマラソン第3ステージ大西洋横断航海のエオラス号は、現地時間午前11時01分、多くの在米邦人や北米横断中何度も熱心に寛平さんの応援に駆けつけてくれたアメマおじさん夫妻、メディカルチェックをしてくれたDr.田崎夫妻、もちろん光代夫人や比企夫人、北米横断サポートクルー達の見送りを受けながらゆっくりとノース・コーブハーバーを滑り出すようにハドソン川に向かって船出した。

 寛平さん、比企さん、光代夫人、比企夫人の表情からは今年の元旦、千葉県鴨川港を出港した時のような悲壮感は見られない。やはり、冬の太平洋横断を成し遂げた経験がそうさせるのだろうか?終始和やかで表情には余裕さえ感じられる。太平洋出発前、比企さんは「太平洋が劣悪な環境で越える分、大西洋はベストシーズンで走れるんだ」、と。このあたりも余裕の裏付けなのかもしれない。

 出港して10分、NY湾リバティ島に立つ「自由の女神」付近でエオラスはメーンマストに帆を張った。フランスがアメリカ独立100年を祝ってアメリカに贈ったといわれる自由の女神像。移民たちの希望を表す松明を右手に持ち、アメリカ独立宣言の日「1776年7月4日」を刻印した銘板を左手に抱え、7つの大陸を表す王冠を戴き、切られた鎖が自由を表す、といわれる自由の女神。破天荒な方法での地球一周を企て、太平洋を横断、北米大陸4800kmを走破し、寛平さんは次なるステージ大西洋に旅立った。

 33日間を予定している大西洋横断は、8月17日前後にフランスルアーブル港に到着するはずだ。冬の太平洋では日焼けすらなかった二人だが、1ヶ月後再会するときには真っ黒になっているに違いない。

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 ママロネックで整備と資材の積み込みを終えたエオラス号がマンハッタンの北側にあるヨットハーバー「ノースコーブ」に廻航してきた。ノースコーブはあの9・11でテロを受けたワールドトレードセンターのハドソン川沿い直下にあるハーバー。比企艇長夫妻をはじめ、大西洋横断準備のために整備・資材積み込みを1週間にわたり手伝っていたアメリカの「海援隊」の皆さんも同乗している。エオラスとは4か月振りに対面する寛平さんはじめ光代夫人もこれを出迎える。73日間に及ぶ太平洋横断航海で傷んだエオラス号のいろいろなパーツや部品、船体も丁寧に修理され、次の大西洋に向けて準備は万全とのこと。太平洋横断73日と比べると大西洋は、期間(30日間)も距離も気象条件も、もちろん操船経験も全く違い、寛平さん、比企さん、周りのスタッフにもどこかゆとりが感じられる。「経験」という学習行為はやはり人に大きな自信を与えるものだ、といった感じがする。

KANPEI EARTH Marathon-090711  夕方、北米横断チーム(陸路班)と大西洋横断チーム(海路班)とでホテル近くの寿司屋さんで再び慰労会。4か月に及んだ北米横断のエピソードや太平洋横断の寛平さん比企さんのバトル秘話に花が咲く。アースマラソンのような長期間に及ぶ冒険イベントは当然のことながら海でも陸でも試行錯誤の連続。その中から最良の方法を模索し、構築して前の目標に向かう、といったやり方で進むしかない。陸路で編成されるメンバーも当然の如く最少人員で最大効率を生み出す作業のなってくるから、兼務兼務の連続で、誰が何を、といった分離作業では立ち行かないのが現場。持ち場をこなした上で全体の不足を補いあってゆく。そこからチームワークが生まれてくる。当然、濃密な人間関係が紡がれるからいわば共に闘う戦友になるのである。現代社会が失いかけている共同意識・協調性・扶助、互譲の精神、といった人間がもち得る叡知をアースが教えてくれている。そんなひとときの晩餐だった。

 明日一日、NYの休日を楽しんだら、いよいよ第3ステージの大西洋横断が始まる。
KANPEI EARTH Marathon-090709  アースマラソン第二ステージといえる北米横断を無事に終えた寛平さん、今日はセントラルパーク西側にあるホテルで休養とメディカルチェックで過ごした。昨日の天気とは打って変わり朝から秋を思わせるような肌寒さだが、平日のパーク周辺は早朝にも関わらずジョガーが多い。

 マンハッタンの中心部にあるクリニックで横断後のメディカルチェックにあたる診断を受けた。4か月4800km以上を走ってきた寛平さんだったが、健康状態は至って良好、やはり鉄人である。

 サポートクルーのメンバーはこの間もサポート機材の片づけやデータ整理で相変わらず忙しく動き回っていた。一方、次の大西洋横断航海に臨む元マネージャーの比企さんは数キロ離れたところにあるヨットハーバー「ママロネック」で太平洋を乗り切ったエオラス号の点検と機材の積み込みに余念がない。陸路と海路、それぞれのサポートクルーがアースマラソンという冒険を進めるためにそれぞれの持ち場で作業に取り組んでいる。北米横断4800kmには実にいろいろな出来事があり、そのひとつひとつの出来事はまたあらためて振り返ることにする。

 夕方は寛平さんのはからいでスタッフが焼肉パーティーに誘われた。
 自転車に乗って寛平さんの映像を撮り続け、ブログで寛平さんの様子を伝え続けたブーやん、シカゴまでの予定で通訳についたムギ君は結局NYまでを完走し、奥さんと愛息とともに。寛平さんの体調管理のために来たマジシャン池田君は終始寛平さんのビールの相手とルート確認・食事の準備と八面六臂の活躍。東京の事務局で現場・事務局・光代夫人との間の情報を繋ぎ続けた竹野さん、などアース北米を支えた直近の面々がどっさりあった北米横断の四方山話で盛り上がり、実に楽しいひとときを過ごさせてもらった。

 濃厚で画期的だったアースの第二ステージ北米横断が間もなく終わろうとしている。

 アース北米横断のラストランはニュージャージー州エリザベス近郊からの27キロになった。
 3月13日(日本時間)LAロングビーチを出発してから実に延べ121日を費やしての北米横断4830km。
 最終日のスタート前、1ヶ月ぶりに寛平さんに会ったが、血色もよく元気そうで安心した。ハドソン川にかかるワシントンブリッジを渡ると景色は一変してNYのど真ん中に入る。おびただしい広告のサインが林立し、るつぼと言われる多様な人種の人々が溢れる街NY。エンターテイメントのメッカ、ブロードウェイを抜け、タイムズスクエアを左手に見ながらマンハッタンを抜けるとゴール予定のハドソン川畔のpier45までは残り4kmもない。
 アリゾナ、コロラド、カンザスの砂漠もミズーリの農業地帯もなく、セントラルパークの緑と高層ビル群、ハドソン川のゆったりした流れを見ながらラストラン。
 さぁ、ゴールを目指す寛平さんとサポートクルーの池田、ムギ、ブーやんを出迎えに行こう!

 18年ぶりのNY。前回来たときはニューヨークシティマラソンだった。当時から参加者が3万人を超えるビックマラソンでその規模に圧倒された記憶がある。今回はアースマラソンで北米横断を完走する寛平さんの出迎えだ。
 アースでは北米全工程をサポートすることが叶わず、NYで出迎えに甘んじざるを得ない自分の心にはすきま風というか消化不良のような状態で寛平さんを迎えることには一抹どころかサポーターとして大きな欠落感すら感じる。
 ランナーサポートは、コース設定や体力を見た走行距離の設定などの技術的なアドバイスや孤独感を癒すメンタル面のケア、障害を防ぐためのケアのために存在するものである。このサポートは数日だけで済むものではなく、がっぷり組んで一貫した取り組みを果たさないと満足のゆくこともできないものである。その意味では寛平さん北米横断の2/3しかサポートできなかった自分への苛立ちにも繋がっているような気がする。
 北米4800kmの完走を果たそうとしている寛平さんはウルトラランナーとしてだけでなく、人間として大きな尊敬を感じているし、北米横断による錬磨がヨーロッパやユーラシアを走るうえで大きな自信を培ったことだと思う。 
 明日の夕方、メディアやたくさんの応援者出迎えの中、NYのpier45にゴールする寛平さんを私は静かに迎えたいと思う、「お疲れさま」と心でつぶやきながら。

 今日はJolietからValparaisoまでの60km。シカゴを目安にLAから3000km以上の道程を走ってきたが、おかしなもので、そのシカゴにくると意識はその先へ移ってしまうから不思議。確かにシカゴは北米内での目標だったし、ず〜っと田舎ばかりを走ってきて、目標到達への期待感もあったからだろう。しかし、北米大陸横断が3/4まで進んでくると、目標はゴールのNYに切り替わり、あらゆるモチベーションが変わってくるようだ。シカゴは全米屈指の大都会だから日本人も多く活動している。今日は20人以上の方たちが寛平アースの応援に来てくれた。勿論、みんな寛平さんの大ファンだ。

 R30はともかく交通量が多い。その上、道路にほとんど歩道というものがない。確かに、アメリカは移動手段がクルマだから道路に歩道はいらないわけだと妙なことに感心するのだが、寛平さんにとっては危険で走りにくいことこの上ない。そのせいか今日は走りのピッチも上がらない。Jolietはシカゴ郊外だが、治安の悪いところもあって、そんなところは建物の佇まいやクルマの様子、ゴミの散らかり具合でもわかる。野良犬がやけに多かったり、なんというか空気感がちがう。こんなところはできるだけサッサと走りすぎることにしている。そして、イリノイとインディアナとのボーダーに到着。実に9つ目の州だ。

 今クールは60kmをベースに走っているが、走りの原動力は食事だ。外国だから家で食べるようにはゆかないが、サポートクルーはあれこれ工夫しながら寛平さんに食べてもらっている。寛平さんも不平不満は一切なく、みんなと一緒にあれこれ云いながら楽しんでいる。NYまで残す州はINを入れてあと五つ。距離も1400キロを切っている。疲労も重なり、足にもさまざまなダメージが出てきている。ともかく事故を起こさずに、ケガをしないように、毎日を確実に走ることに徹してもらいたい。

 クルーが減ってこれからしばらくは少ないスタッフで日々を凌がなくてはならない。私は、後ろ髪ひかれる思いで、今日から現場を離れる。
 朝から雨模様の空。
 気温はさほど低くない。右足の痛みも小康状態を保っている。スタート前にNYまでの残りの距離と、使える日数を伝え、シカゴ以後の進み方を説明した。残りの距離1500km弱を一か月で行くとなれば毎日の走行距離を上げ、5勤1休の1クールで280kmを確実に進まないと間に合わなくなる。計算上は60・60・40・60・60km。今までの寛平さんの走り方ならスタート時刻を朝7時前で守れれば、大きな負担にはならずに行けるだろう。走りに専念できる環境をサポートクルーが作ってゆかなければならない。

 R30とFW55のクロスするところで初めて「Chicago」の標識が見えた。シカゴ、シカゴと目標にしていた都市の名前。今回、寛平さんは2016東京オリンピック招致大使という役目も担っている。沿道に応援に来てくれる日本人をはじめ、機会あるごとに「オリンピックを東京へ」ということをお願いしたりと、バリバリのPR活動をしてきている。シカゴも最終候補都市に残っているから、いわば東京はライバル関係にある。そのシカゴがいつしかアースマラソン中の目標地点にもなっていたから標識が見えた時には感慨がきっとあったはず。
 このころから雨が本格化してくる。風もあるので雨は横殴り。寛平さん、傘をもって走り始めた。ちょっと滑稽な姿だが本人納得の選択。

 11:47、23.9km地点。
 Jolietという古い町並みに入ると建物の雰囲気も都会の匂いがいっぱいだ。煉瓦づくりの建物や船を通すためのハネ橋がかかった川、マイナーリーグのスタジアムなど、ここだけが都会といった雰囲気。Joliet Township High Schoolのクラシカルな建物がひときわ目を引く。大きくいうとシカゴ中心部からそれでもおよそ70kmほど離れているのだが・・。シカゴは全米有数の都市だから人も車も家の数もすべてが過密。したがって治安もその分よくない。日本人は国内治安が良いから治安が悪いところでの危機意識が薄い。このことはこれからNYに向かうにあたってクルー一人一人が意識してゆかなければならないことだ。
 いつの間にか雨があがり、蒸し暑さが増してきている。

 13:20。R30 New Lenox 35km地点。
 Jolietを抜けてしばらくゆくと再び緑が多くなってくる。足の痛みは小康状態を保っているらしく、「大丈夫や・・よかったわぁホンマに」と寛平さん。足はアースの要だから他の何よりも一番ほっとしたのは寛平さん自身だろう。足は甲の部分だけでなく、庇って走るために靭帯や筋肉の他の部分にも負担がかかり、かなりの痛みがあるだろうが表情には全く変化はみられない。穏やかそのものだ。最近の寛平さんからは、疲れや痛み、暑さや寒さからくる苛立ちなど、それが読み取れるほど表情には表わさなくなってきている。ありのままを受容する「心の力」が生まれ始めているのではないか?
 「13:36かあ・・ほな5kmゆこか」と言い残して走りはじめた。New Lenox〜Frankfort〜Richton Parkに向かうR30は交通量が多く、歩道がないため走りにくい。

 14:25 40km地点。
 大勢の日本人応援者。地元シカゴの日本人学校の教師をしている家族が大挙応援に来てくれていた。CoCo一番カレーを1杯、オレンジ1個とお茶の昼食を済ます。残りは20kmだ。45km地点、走ることに集中しはじめて寛平さんの走りも滑らかになる。ジュースを1本、ぐいっと飲んで「あと15km!」の声に「よっしゃ!!」を残して走りだす。「脚はどうですか?」「あかんなぁ・・」といいながらもフォームに大きな崩れは感じられない。この15kmを、5km40〜42分でカバー。見事な走りで60kmを完走。

 寛平さんは元来痛みに強い人だ。それよりもそれを表に出さないのでわからない。これは想像だが、痛みの原因は本人も当然わかっていて、どういう走りをすれば痛みをカバーし、更にしっかり走れるフォームをつくれるか?を常に同時模索し走りのバリエーションを増やしている。進化を続けているのである。今夜は本人のリクエストで久しぶりの寿司を堪能した。

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